取り組み紹介

奄美の藍染文化を復活させたい。
自然の恵み、手しごとの魅力を伝える「奄美藍染研究会」

眼前に広がる、透き通ったエメラルドグリーンの海。透明度が高く、心癒される独特の美しい色彩はアマミブルーと称されるほど。

鹿児島県本土と沖縄のちょうど中間くらいのところにある奄美大島は、ソテツ、ガジュマル、マングローブなど、南国独特の緑濃い植物が生い茂り、手付かずの自然が多く残る楽園です。この島でしか出会うことのできない、フォトジェニックな風景があちこちに見つかります。

私たちは、自然豊かな奄美にご縁があって、それぞれのタイミングで、東京や神奈川から奄美の加計呂麻島に移り住んだ「奄美藍染研究会」の代表の水谷淳一と、副代表で妻の里佳です。

現在は、地元集落の住民有志とともに研究会を立ち上げ、休校中の小学校を工房やアトリエにして、島の作家さんや有志と活動しています。

なぜ私たちが、奄美の藍染と本気で向き合うようになったのか。これまでの歩みを振り返りながら、歴史ある奄美の藍染文化やその魅力、これからの取り組みについてご紹介させてください。

縁に導かれ、自然な流れで都会から奄美へ移住

もともと、私、淳一は東京でIT企業を経営していましたが、あるとき体調を崩し、療養のために、奄美に長期滞在したことが移住のきっかけでした。

奄美の本島から船に乗って20分くらいのところにある小さな島、加計呂麻(かけろま)島に滞在し、畑の手伝いをしながら、自然と触れ合ううちに、不思議と体が元気になっていきました。

その後、一旦東京に戻りましたが、「島で採れるハーブでペーストを作りたい」など、色々と相談が舞い込み、それらを手伝っているうちに、どんどん島の人々と深いご縁ができていったんです。私にとって島への移住することは自然な流れでもありました。

里佳と出会ったのも、実は加計呂麻島でした。島の神社で舞のご奉納の儀式があるというので、私がお手伝いをしていたとき、舞手の一人としてやってたのが彼女でした。妻は当時をこうふり返ります。

「舞を習っていた先生が加計呂麻島とご縁があり、2015(平成27)年2月22日の舞のご奉納に先生や仲間とご一緒させていただきました。私は島のことを詳しくは知らず、初めて行く場所で滞在時間は3時間ほどでした。でもその後、きっと二人は合うはずだからと仲を取り持ってくれた夫の友人がいて、本当に不思議なご縁です」

それまで、里佳は東京の音楽関連の企業に長年勤めていました。平日はしっかり働き、土日は趣味に没頭。当時からハーブや薬草、染め物、織物などに興味を持ち、趣味として楽しんでいたそうです。加計呂麻島での暮らしとともに、自然の植物に触れる機会はますます増えていきました。

あるとき里佳は、年に数回の草刈り作業で山積みになる“雑草と呼ばれる薬草”を目の当たりにします。そのときから、このまま捨てられるのは忍びないと譲り受けて、ハーブティーやバスハーブなどに活かして楽しむようになりました。そして次第に、もっと島らしさを感じさせる何かを生み出せないだろうかと考えるようになったのです。

身近にこれだけ体に良い元気な植物が溢れているのなら、それらを活かしたいと思った彼女は、地域の薬草を使ったものづくりを始めます。

<希少な月桃や半夏生の香りで癒される「カケロマ島ハーブボール」。>

島にある薬草を詰め込んだハーブボール(タイ発祥でマッサージなどに使われる、数種類のハーブを布で丸く包んだ道具)を作ったときに、友人からの依頼がきっかけで包む布を藍染にしてみたことが、藍との出会いでした。

現在では、草木の恵みを分かち合うブランド「日月星草(ひつきほしくさ)」を主宰。月桃に奄美の黒糖焼酎を合わせた月桃ハーブチンキや、三大がん封じの一社として知られる鶴嶺八幡宮(神奈川県茅ヶ崎市)から依頼を受けて手がけた撤下塩(おさがりしお)を使ったハーブバスソルトのほかに、藍布で包んだ「玄米ハーブカイロ」や「アイピロー」などを手がけ、ますます藍の可能性や魅力に惹き込まれています。

奄美と藍染、その歴史的な深い関わり

ここで少し、奄美と藍染の歴史を説明させてください。奄美では古来より、山に自生する藍を使った藍染が行われていました。奄美の藍染に関する最古の記録では、文政 12 (1829)年、薩摩藩薬草奉行の命を受けた藩士、伊藤助左衛門の調査記録に琉球藍(木藍“こあい”と呼ばれていた)の記述が残っています。

琉球藍は、キツネノマゴ科の多年草植物。東南アジアやタイ、インド、台湾などに広く分布。現在、日本では沖縄の一部地域で栽培されていますが、昔は奄美大島にも多く自生していたようです。

水がめに琉球藍を入れて発酵させ、木綿や芭蕉、絹などを染め、綾織物や朝衣などが作られていました。1300年前より受け継がれる伝統工芸・奄美大島紬の染色においても、泥染めの下地染めなどに琉球藍の藍染が利用されていた歴史があります。

この琉球藍は、一般的な藍染によく使われる蓼藍(タデアイ)やインド藍とは違う植物で、限られた暑い地域でしか育たない、特別な藍です。驚くことに、花が咲くのは10年に一度だけ。繁殖能力が低く、種子ができないために挿し木でなければ増やせません。沖縄でも近年は生産減少の傾向にあり、ますます希少性が高まっています。

そもそも市場に出回っている藍染と呼ばれる製品の98%は、化学合成された人工藍を使用したものといわれており、天然の藍染製品はわずか2%。天然製品のほとんどは蓼藍を使ったもので、琉球藍はその4分の1ほど。南の島でなければ巡り会うことができない、本当に希少な藍なのです。

奄美では、幕末から明治初期にかけて、藍染が盛んに行われていたようです。加計呂麻島(瀬戸内町)では、旧暦の8月頃に藍の葉を収穫し、2日ほど水に浸け、それを引き上げた後、焼いたサンゴを入れて混ぜ、染料を作る、という記述が残っていました。

明治末期から大正初期にかけては、瀬戸内町の山郷(ヤマグン)と呼ばれる地域で、琉球藍による染色事業が行われていましたが、輸入藍や人工藍の発明により、次第に衰退。1973(昭和48)年1月、奄美の歴史文化や染織を研究・執筆していた茂野幽考氏が、与路島に自生する琉球藍を発見し、増産と産業化に取り組みましたが、こちらも残念ながら途絶えてしまったようです。

こうして私たちが藍染の史料を調べていくうちに、奄美が藍染には深い歴史があることが少しずつ分かってきたのです。

途絶えそうな藍染文化「終わってしまうのはもったいない」

あるとき、私たちは瀬戸内町の嘉徳にある「よしかわ工房」を訪ねました。藍染が好きな人なら、ご存知の方も多いかもしれません。ご主人の吉川好弘さんは48歳のとき、自ら山に入って琉球藍を何年も探し、1986(昭和61)年2月に加計呂麻島の生間集落で、ついに自生する1本の藍を発見。奄美の藍染の復活に取り組んだ情熱の職人です。

吉川さんはご自身の畑で琉球藍を栽培し、それを採取して昔ながらの天然の染料を作り、この地で約40年、藍染を手がけてきました。

里佳は、吉川さんが手がけた藍染に出会った衝撃を「もう本当に美しくて、藍の色が深く、とても綺麗」とふり返ります。

「一般的に見る藍染よりも、もっと深く奥行きのある濃紺で、こんな藍染は今まで見たことがありませんでした。他の藍とは全然違うんです。これは琉球藍だからこそできる色合いではないでしょうか。また、(工房のある)嘉徳集落の水の良さも関係していると聞きました」

吉川さんと出会ったことで、私たちは、琉球藍への思いが一層深まっていきました。

残念ながら、吉川さんは2年前に亡くなり、その技術は継承されていません。いま、まさに奄美の藍染の存続は危機的状況にあります。コツコツと真摯に築いてきた藍染の文化がまたしても途絶えてしまう現実に、私たちはなんともやり切れない気持ちになりました。

「ここで終わってしまうのは、あまりにももったいない」

ゼロから始めるのは本当に大変かもしれないけれど、自分たちでやってみる価値はあるんじゃないかと思い始めました。自分たちの畑で琉球藍を育て、収穫して、藍を建て、染め、作品を発表する。それらを全部できたら理想的だと。そして自分たちが住んでいる加計呂麻島でできたらすごくいいだろうなと考えたのです。

琉球藍については、蓼藍に比べて、まだまだ研究や調査が進んでおらず、わからないことがたくさんあります。文献などを探してみても、ちゃんと数値化されたものがありません。琉球大学で少し研究されていますが、沖縄の事例と奄美大島では気候も土壌も違うので、何が正解かまだはっきりとはわからない。

ここまで来たら、あとはもう自分たちで実践してみるしかありません。

「奄美藍染研究会」を発足、小学校を工房やアトリエに

そうして2019(令和元)年、私たちは地元集落の住民有志とともに「奄美藍染研究会」を立ち上げました。

今は加計呂麻島の俵集落にある、休校中の小学校の給食室を工房として借り、まだ実験段階ではありますが、藍建て技法、染色技法を研究・実践しています。さまざまな藍染作品の試作も始めました。

この小学校は、加計呂麻在住の織りと染めの作家である「自然布処ののや」の佐田亜矢さんが「かけろま手しごと工房」として立ち上げ、数人の作り手が教室をアトリエとして活用しているところでもあり、島の手しごと作家さんたちにも一緒に藍染に関わってもらい、作品作りに役立てています。

<休校中の小学校を工房やアトリエにして、島の作家さんや有志と活動しています。>

さらに自分たちで藍を育てようと、栽培のための土地を借り受け、草刈りからはじめて畑を作りました。沖縄の琉球藍生産者、泥藍製造者、染色家の方々を訪問し、苗を分けていただき、農業の知識を学びながら、農家さんと二人三脚で試行錯誤しつつ育苗を続けています。今は農家さんと琉球藍の栽培に挑戦中で、染料にするための藍建ても様々なやり方を試しているところです。

<島のパッションフルーツ農家さんと藍の育苗をはじめています。>

知れば知るほど藍は興味深く、あれこれ探求するのは面白い。島に藍の畑があって、小学校に藍染の工房や作家さんたちのアトリエもあるので、連携して動きやすい環境になっています。

今後、作家さんたちにも琉球藍を活用してもらうことで自分の作品や表現の幅を広げることができたらうれしいですし、琉球藍の価値を高めていきながら、それぞれの収入にもつながるように、藍染を軸に地域を循環・発展させていくことができたらいいなと考えています。

藍を軸に、奄美や加計呂麻島の発展を目指して

これからの取り組みですが、藍染をベースにした様々なアイデアが膨らんでいるところです。例えば、染め方の動画をオンラインで公開し、自宅で簡単に染められるキットのようなプログラムも考案中です。また、藍染と一緒に島のハーブを使った商品なども詰め込んだ、奄美の草木を楽しめるボックスセットや会員制コミュニティのような仕組みもできるといいですね。染色の楽しさを通じて、奄美の文化や薬草、琉球藍について少しでも知っていただけたらと思っています。

ゆくゆくは、実際に奄美や加計呂麻島に足を運んでもらい、藍染体験や島のハーブの蒸留体験、ハーブテントサウナに入るなど、季節に合わせたリトリートツアーのようなことも企画できたらと考えています。夢は広がります。

琉球藍と出会ったことで、人の縁が広がり、やりたいことがどんどん溢れてきます。

このように、私たちは、藍染を通して、歴史や文化、自然など、奄美の魅力をより多くの人に伝えていきたいと日々奮闘中です。奄美藍染研究会を応援いただき、見守っていただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。

奄美藍染研究会

代 表・水谷淳一

副代表・水谷里佳